仕事でデータベースをプログラミングしていて
心境に変化がある自分に、ある時気づいた。
ある給料日の夜、いつもより少しだけ残業することになったので
その日は娘も連れ立って、近所のレストランで夕食をとることにした。
お酒も入り口数も多くなっていたのだろう、秋刀魚の刺身の話をしていた矢先のところで、
おもむろに、水の入ったグラスをテーブルのフチに置く。
すると最近つかまり立ちを覚えた娘は興味をしめし、グラスに手を伸ばした。
「これって、関数なんだよ。」
とうとつに私が言うから、妻はなんのことだかわからない。
「関数と秋刀魚のお刺身と何か関係があるの?」
グラスをよこせと暴れる娘を押さえつつ、恨めしそうな顔で妻が聞いた。
学校で習うのは数字やXやYを使った関数。単純なものだとX=Y。
先ほどのテーブルと娘の関係は、「論理関数」の部類。
「もしもXの時、Yになる」(フチにグラスを置くと→娘が興味をしめす)といった感じ。
何も関数は数字だけではない。
世の中の理は関数と通じるところがあると最近気づいた。
こんなことを想像したことはないだろうか?
もしも今、事故にあって、自分は過去のある地点から今の記憶を持ったまま人生をやり直すことになる。
そうしたら、どんな風にやりなおそう。
私はこれまで、通学・通勤時など、手持ち無沙汰になる度に、そんな夢想ばかりしていた気がする。
最近になって気づいたが、それは「後悔」の多い人生からくる心の逃避、
そして現実に向き合うためのストレス解消法だったのではないだろうか。
ただ最近は、そんな夢想をしなくなっていた。
そこに関数と秋刀魚の刺身とテーブルと娘が関係してくる。
「理由」があって「結果」がある。
一見偶然や奇跡のようなものでさえ、それは起こるべくして起こるものである。
人生はA+B+C+…の積み重ねからくる「結果」なのだ。
もしも、中学生の時、もらった昼食代をお小遣いにせず、昼ご飯をちゃんと食べた日が一日多くあったら、
もしも、徹夜で友達に借りたTVゲームをクリアしなければ、
もしも、前の日の晩の食事が秋刀魚の刺身でなければ、
もしも、これまでとは違った日が一日でもあったら…
私たちが授かった、大事なこの娘は生まれない。
誰かに、過去に戻ってやり直したい時期があるか?と尋ねられたら即答する。
「娘の生まれない人生をやり直すつもりはない」
たとえ、また妻と結婚して子供を授かっても、生まれてくる子は違う子だ。
お酒も入り、熱弁をふるっていると、娘をあやしながらテーブルの向こう側の妻が言う。
「無駄なものが何一つ無くって、よかったね。」
その一言で、胸につかえていた色々なものが洗い流された気がした。
そうだね、生きてきたこれまでと、生きていくこれからに、
無駄なものなんて、何ひとつないんだね。